髪は不思議だな、と思う。生えている間は美しくて、「触れたい」とまで言われるくせに、抜け落ちた途端に汚いものとして扱われる。何が違うのだろう、と今でも考える。

SNS上で昔好きだったミュージシャンの話が出ていたので、久しぶりに聴こうかしら、とアプリを開いたものの、どうにも再生ボタンを押す気になれずそのままアプリを閉じてしまった。

そのミュージシャンは私より15歳ぐらい上のバンドで、私が小学生の頃にテレビで知ってグッと心を掴まれた。CDを揃え、ラジオを毎週欠かさず聴き、ファンクラブというものにも初めて入った。しかし中学生の頃にバンドは解散、高校生の頃にメンバーの一人が病に倒れ帰らぬ人となった。今も音楽活動を続けるボーカリストが数年前に再結成を呼びかけるも他のメンバーは賛同せず、サポートミュージシャンとともにライブをしているらしい。

ある音楽ファンの方がSNSで言うには、「一人でも当時の名を掲げて歌い続けるのは、バンドで作った名曲たちを残すためなのだろう」ということだった。

どうなんだろう。

その推量を貶すつもりはないし、実際その思いのおかげで出会えた音楽もあるのかもしれない、とは思う。

でも、バンドが解散して、メンバーが散り散りになってなおバンドの名でバンドの曲を歌い、高いチケット代を取る彼の姿は、あの頃の私には見るに堪えないものだった。

もっとも、「生活」「食い扶持」という言葉を覚えた今は、彼の言い分も多少は理解できるようになった。音楽ファンの方の言うことも一理あると思う。

それでも、更新するにつれて日々価値が生まれるのが社会の摂理なのだとしたら、もう動かないものに新たな価値は生まれないのではないか。今を生きる私は、より日々価値を更新するものに寄り添うべきではないか。

あの頃を回想するためだけの、ノスタルジーを繰り返すだけの存在に成り下がってほしくないのだ、常に思って聴き続けることと思い出して聴くことは違うと思うのだ。何というか、あの、分からないかなあ。

うまく言葉にできないもどかしさを腹に抱え、Apple Musicを閉じた。私の気持ちが更新される日まで、RAZZ MA TAZZも、初恋の嵐も、まだ当面聴けない。髪をとかし、部屋に落ちている髪をくずかごに捨てて外へ出かけた。

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