海へ

風の向きによって、磯の香りが飛んでくることがある。東京はしばしば「コンクリートジャングル」と揶揄されるけれど、東京湾を擁する水の都でもある。品川駅の界隈にはかつて芝浜と呼ばれる遠浅の瀬が広がっていて、今も落語の舞台として語られている。

私の地元は内陸ではあったものの、車を30分も走らせれば海に臨むことができた。父も海辺の工場に勤めていたため、幼い頃から何かにつけて海へ連れて行ってもらったことを思い出す。キャンディボールを抱え、毎週末のように港公園行きをせがんでは、強い海風と芝生の匂いが混ざった青臭い風にボールもろとも揉みくちゃにされ喜んでいた。

大学進学で郷里を離れても、進学した先がまた海辺の街だった。海に関する文化の授業も受けたし、アルバイトの帰りに同僚と連れ立って浜へ行ったこともあった。

特別海が好きだと思ったことはないけれど、振り返ると20年以上海を吸い込みながら育ってきたことに気がついた。普段はそんなこと思い出しもしないくせに、妙に暖かい夕暮れ時、ビルとビルの狭間を吹き抜ける突風に磯の香りを感じると、考える間もなく瞼の裏に浜辺の景色がパッと映し出される。

最近はちょっとだけ海が恋しい。外海の、何もかもすっ飛ばすような強い風。浴びているだけで腕がかゆくなりそうな潮の匂い。視界を遮るものが何もない、不安になるほど広い空。海と相対するためだけに海に行きたい。何にもない水平線に唖然としたい。

東京は紛れもなく水の都だけれど、ここから海まではほんの少し遠い。

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