古典落語を聞いているとたびたび「無筆」という言葉が出てくるのですが、それはつまり「文字の読み書きができない人」のことを指します。貧富の差が大きく、義務教育のなかった江戸時代やなんかの話です。
しかし、誰もが読み書きを学べる世になって久しいのに、カタカナになると途端に読み書きがおぼつかなくなる人が散見されるのはどういうことなのでしょう。たとえば、ティッシュとか。コミュニケーションとか。どこを小文字にして、どこを伸ばせば発音どおりに表記できるのか、パッと判断がつかないというのです。ちゃんと毎日登校している中学生にも、還暦間近のおじさんにも、そういう人がちらほらいます。日常的な日本語の読み書きはできる、何なら英語も分かる。でもカタカナは書けない。カタカナ無筆。
ひょっとして、催眠術か何かなのでしょうか。しかし何のために。

私、カタカナ不自由です。外来語がどこの国から来たのか、直接もたらした国の言語、大元の言語、ありすぎすぎます。普及している言葉と、外国語の発音の乖離も私を混乱させる。ティッシュじゃなくてティシューだろう、とか。ムズカシイネ!
ああ、そうですね。スパゲティーって言ってるけどスパゲッティって書く、みたいな混乱もありますね。大学でイタリア語入門の授業を受けて学んだことは、スパゲッティはイタリア語で「スッパッゲッッティッ」と言う、ってことぐらいのものです。