書く、という暴力

友人から著書を頂いて、少しずつ読んでいる。読みながら、姿勢を正している。

他者を綴ることの加害性、ものを書くことの暴力性を初めて知った。むしろこれまで考えたことすらなかった己の無自覚さに愕然とした。

誰かに対して思いを馳せること、何かを評価すること、それはあくまで内省であり、当然主観であり、誰かに投げかける文章として表明しない限り、私だけのうちで完結しているものと思っていた。

しかし実際にはそうではなく、言葉として形を与えられれば角にぶつかって怪我をする可能性はゼロではなくなる。「そんな形ではない」と誰かに傷をつけ拒絶されることだって当然あり得る。

思えば、自分だって今まで幾度もそうやって切り傷、擦り傷をつけられてきた。てっきりあれは人となりから生じる加害なのだと思い込んでいたけれど、実のところその人自身は何も悪くなくて、握りの甘い言葉の角が人知れずたまたま私を傷つけたのかもしれなかった。

(私は、必要以上に多くの人のことを勘違いして、遠ざけてきたのかもしれなかった。)

だからものを書くな、というのではない。腹を括っておけよ、ということ。知らなかったから誰かが怪我をしても良いということには決してならないからだ。物書きは、思想に色や形を与える仕事だと心得た。ならば、己の暴力性を自覚して生きるべきだと思う。周りに目も配れない者が、凶器たり得るものを無邪気に振り回すのはとても見ていられない。

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