河村隆一

一時期、母が河村隆一のファンだったことをふと思い出した。

あれは突然だった。たぶん車を運転していたときにラジオで聴いて気に入ったのだと思う。別にLUNA SEAのファンだったわけでもないし(何ならLUNA SEAなど知らないんじゃないだろうか)、ワーキャーとライブまで追いかける様子もなかった。車内で流すカセットテープを作るのに「何が聞きたい?」と尋ねると、母が「河村隆一がいい」と唐突に言いだしたのだった。私は自己主張をしない母が好きなものを教えてくれたのがとてもうれしくて、ミックステープではなく全編河村隆一だけのカセットテープを作ってあげたし、お小遣いで中古の河村隆一のCDも買った。車の中でカセットテープを流して、「Love is…」を一緒に歌ったりもした。あれは何だったのだろう。

秋である。東京にいるとついぞ感じることもなかったけれど、山里を歩いていると強烈に秋を感じる。銀色のすすきが揺れ、庭先には真っ赤に熟れた柿がたわわに実っている。どこからともなく、煙のくすぶる匂いが漂ってくる。しーずかあなあ、しーずかな……口をついて出るこの歌は何だっけ、ああ、「里の秋」か。途中の歌詞はおぼろげなので、ハミングでごまかしながら口ずさむ。

母は歌が好きなんだな、今さら思い当たる。

私がこうして「里の秋」を(おぼろげながらも)口ずさめるのは、幼い頃に母がたくさんの歌を聞かせてくれたからだ。「みかんの花咲く丘」「揺籃のうた」「夕焼け小焼け」、耳の奥に母の歌声がかすかに残っている。兄が学校でもらってきた『みんなの歌』を見ながら、幼い私はあれを歌おうこれを歌おうと母にねだった。毎日開くうちに『みんなの歌』は表紙がちぎれ、セロテープで留めてもらってもなお教わった歌を繰り返した。台所から料理をしながら小さく歌う母の声が聞こえてきて、「あれは何という曲だろう」と思い眺めた母の背中。曲名は聞かなかったのだっけ、聞いても忘れてしまったのだっけ。

最近はとんと車を運転しなくなった母は、「そろそろ免許を返納しようかな」と言っていた。ラジオで歌を聴くことのない今はどんな歌が好きなのだろう。洗濯物を干すとき、どんな歌を口ずさんでいるのだろう。

コメントを残す