小説と事実

電車の向かいの席で、女性がしきりに手を叩いている。気のせいではない、何度も手を叩く。寝ぼけているのだろうか。目は瞑ったままだ。

何の音だろう、と本を読んでいた視線を女性に向ける。この間買ったばかりのKindle本をわくわくしながら開いたところだったのに。女性は明るい色の開襟シャツが爽やかで、てっきり同世代ぐらいかと思っていたけれど、手の甲に浮き出た血管を見るに、おそらく親ぐらい年上のようだ。

手を叩く音がどんどん大きくなる。手と手がぶつかる衝撃やその音で目は覚めないものだろうか。ちらりと女性を見る視線が、その軌跡の途中で別の乗客とクロスする。みんな気になっている。

事実は小説より奇なり、という。もうKindleどころではない。拍手の合間に阿波おどりのような手の振りまで付いてきた。なんなんだ。気味が悪くなったのか、彼女の隣にいた乗客は別の車両に移っていった。残された私たちにも席を立つか対峙するか、決断を迫られている気がしてくる。

「はあ〜あ」

間抜けな声が静寂を破った。もしかして酔っているのか。えええ、ただの酔っ払いですか。そうなんですか。酔っ払いなら寝言も発するだろうし、変な振る舞いのひとつやふたつぐらいはするだろう。そんなもの、気にかけただけ損としか言いようがない。酔っ払いなんて三十六計放置に限る。

疎んじる私の思いが伝わったのか、女性は顔を上げておもむろに立ち上がり、ヒョコヒョコと歩いて電車を降りていった。電車とホームの段差に少しよろめいたように見えたが、もとからそんな歩き方をしていただけかもしれない。結局起きていたのか寝ていたのか。だいたい、何の夢を見ていたのだろう。まるで訳が分からない。

私は読み始めたばかりのKindleに集中することにした。事実が小説より奇なら、小説は事実より論理的だ。それが小説の良いところだと思う。

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