
お笑いが好きなので、芸人のインタビュー記事を見かけるとつい立ち止まって読み込んでしまう。へえ、なるほどな、そんなことを考えているのか。他人は自分じゃないから、誰かの頭の中や胸の内が垣間見えるような記事を読むと、どんな物語よりもわくわくするし、感動する。事実は小説よりも奇なり、とはこういうことを言うのだろうか。違うかな。
はあおもしろかった、と読み終えた後はたいてい記事をぐるぐる見回して「文:」という表記を探しに行く。職業病だろうか、こんな良い文章を書いたのが一体どこの誰なのか知りたくなってしまう。お笑いに関する記事だと、篠崎美緒さん。最近ネット記事でよくお見かけするけれど、どこかで聞き覚えがあるな……と思っていたら、私が小中学生の頃、目を皿のようにして繰り返し読んでいたお笑い本の筆者だった。四半世紀は第一線で活躍されている計算になる。四半世紀もお笑いを追い続けていれば、当然情報も蓄積される。何より、それだけ追い続ける愛情や熱意は並大抵のものではない。インタビューにも自然と深みがにじみ出る、ような気がする。
この間、誰かと「官能小説はAIが書く時代になるんじゃないか」という話をした。その人が言うには「官能小説は定型文やメソッドが確立されているから、それを飲み込ませればAIがいくらでも量産してくれる」という理屈だったけれど、私はそう簡単な話にはならないだろうと思っている。娯楽としての文章、不要不急の文章であればあるほど、書き手のくせやバックグラウンドが価値の割合を占めていく。枠にはまらない想定外のバグのような、たい焼きの羽根みたいな部分がおいしくて、その文章に、あるいはその書き手に惚れ込んでいく。少なくともAIが「自由自在な独創性」を実装しないうちは、物書きの業界が潰えることはないのではないか。官能小説作家なめんな。あんまり読んだことないけど。
「やっぱり、あなたらしい文章だね」「あなたの書いた文章はこういうところがある」そういう、おいしい羽根の部分がちょっと付いているたい焼きをもっと焼きたい。全国チェーン展開しようなんて大それたことは言わないから、夕方にちょっと混むような、地域で評判のたい焼き屋ぐらいにはなってみたい。