園子温監督の映画を観て、私たちはみな言語が違うのだ、という思いを再認識しました。
大学生の頃は研究室で招待券を頂く機会も多かったので、よく美術館へ足を運びました。流派や歴史の知識はほぼ皆無でしたが、私には「なぜそれをこの形、この色でここに描いたのか」が不思議でならず、作品一つ一つを異質で奇怪なものとして面白がっていたものです。
絵描きの人とはきっと言語が違うのだと思います。
ミュージシャンの頭の中も私にはさっぱり理解できないものです。シャワーを浴びているとき、車を運転しているとき、恋人と別れたとき、メロディーが浮かんできたためしなんか一度もありません。けれどもそういうことが往々にしてあると彼らは言うのです。
毎日怒っている人は怒りとして、おしゃべりな人は言葉を声に乗せて、園子温監督は映像として頭の中に浮かんだものを表すことが肌に染み付いているのだと思います。百歩譲ってあの世界が頭の中に浮かんだとしても、それをあれだけの映像にすることは私には到底できません。
私ならきっと「昨日こんな夢を見た、こんな想像をした、誰彼さんがどこそこへ来てね、、」などとこうして朝の電車で携帯片手にブログに書きしたためるだろうと思います。質の如何はさておき、おそらくそれが私の言語なのだと思います。