もう先月のことになりますが、寂庵へ瀬戸内寂聴さんの法話を聞きに行ってきたときのことを残しておこうかと思います。
京都駅からバスに揺られて小一時間ほど行くと、嵐山の先の静かな住宅地の奥に寂庵はあります。月に1度催される法話の会への応募は毎月1000通にも上り、その中から抽選で200名ほどが参加できるのだとか。とんでもない所に来てしまった。
5月で90歳になられたという寂聴さんはもはや私の知っている90歳ではありませんでした。肌のハリツヤ、テンポの良い語り口。特に声は落ち着きがありつつも高く可愛らしい。美しい人はたとえ90歳でも女性なんだなあ、と妙に感心してしまいました。気をつけなくちゃ。
寂聴さんは、難しいことを一切言いませんでした。「私は反対するけれど、あなたはあなたの人生があるから違う考えでもいい」「私は上手なお経は上げられないけれど、話すことは好きだからこうして法話をしている」「誰かに笑ってもらいたいなら自分が笑っていなくちゃだめでしょ?」何となく考えていたことに対して「それでいいよ」と背中を押してもらえたような気がして、とてもうれしくなりました。
「死んでしまったこと、もういないことを受け入れられない人のための考え方が宗教」
なるほどね。だから次の世界や次の人生がある、って話になるのか。次の世界で楽しくやってる、と思うだけで安心するもんなあ。と、とても納得しました。と同時に、そういうものなんだったら宗教は素敵なものだし、やはり押しつけても仕方がないものだよなあ、と思いました。
きっとあの法話に満足する人もしない人もいて然りだし、誰もが行くべきだとも思いません。けど私はいろいろ合点がいってすっきりしたので、彼女の話を聞けて良かったと思います。
木漏れ日や帰り道の花が、とてもきれいでした。
